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勉強する理由

勉強する理由って子供のころはよくわからなかった。楽しいからやっていたこともあるし、面倒だなと思うこともたくさんあった。でも今考えると、大人になってからどれだけ自分のやりたいことを好きにやれるようになるかって、結局どれだけ勉強してきたか、努力してきたかによっている気がする。結果論かもしれないけれど。

日常と非日常

世間一般では観光地なのだけれど、ぼくにとってはただの乗換駅、という場合がある。例えば押上駅。スカイツリー目当てにたくさんの人がやって来る。でもぼくは乗換えに通りすぎるだけ、という場合の方が多い。もちろんソラマチに寄ることもあるのだけれど、どちらかというと日常の一部である。なだらかに日常とつながっている。

それはきっと、ぼくが観光地として考えているところにもそこに住んでいる人たちがいて、そこ、その人たちの日常があるということでもあるのだろう。旅に行くと、その土地のスーパーマーケットとか商店街に寄るのが好きだ。売られている品物がすこしずつ違っていて見ていて楽しい。中学校の修学旅行で長崎に行ったときもたしかダイエーに行った。

どんな場所でも、日常と非日常が隣り合わせになって存在している。非日常のつもりで訪れた場所でも、そこに日常がある人たちのことを想像していられたらいいなと思う。

定性的とか定量的とか

Webのお仕事をしていると、最近はいろいろな指標を数値化するのが容易になってきているので定量的な基準でいろいろなことを判断しようとすることが多い。

その考え方自体は間違っていないと思うし、数値をきちんと見るのは大切だと思う。でもそれだけが目的化してしまったり、それだけで語られるのを聞くと違和感を覚える。

もっと定性的で感覚的な、あるいは哲学的な(ポエム的な)考察がまずあって、その検証のための数値測定なのではないかと思うのだ。プロダクトの基礎体力みたいなもの。例えばコンテンツや、方向を決定付ける機能。そうした試行錯誤の結果の検証として、数値は使われるべきだと思う。

定性的なものが土台になって、その上に定量的なものの見方を必要に応じて乗せていくのがいいのではないか。どちらがいいとか悪いではなくて、その関係性が大切なのではないか。そういうことを考えたりしている。

古い桜

自宅近くの団地にはたくさん桜があって、春にはきれいに花を咲かせる。夏は子供が蝉取りをするし、秋の紅葉もとてもきれい。皆大きくごつごつざらざらしていて、まるでおじいちゃんだ。

冬の日。団地の入り口の桜が切られてしまった。朝通りかかったときはあったのに、夜には切り株だけの姿に。立て札が出ているので見ると、桜の木の更新とのこと。つまり木が古くなったので、倒れる危険を考えて切りますよということだ。あとにはまた若い桜が植えられるらしい。

残しておいてほしかったなと思いつつ、仕方ないことだったのだろうとも思う。事情を説明した立て札を作った人のこと、それを読む人のことを考えると桜の木、愛されていたな。そして老いた桜の中にやって来る若者の桜が、すくすくと育っていってくれるといいなと思う。

パララックス?

「パララックス」と呼ばれるスクロールの速度をずらして見せるWebページのエフェクトがある。初見時からどうにも苦手なのだけれど、作る側には体験を届けたい気持ちがある一方で、訪れる側は目的を達成したい、情報にたどり着きたい気持ちが強いからスクロールが想定した動きでないとイライラしてしまうのが原因なのではないかと思う。没入する場としてのWebと、ツールとしてのWeb。どう使われるのか、使われてほしいのかきちんと考えておけるようにしたい。